還暦を迎えた邦喜は昭和56年(1981年)、定山渓グランドホテル木造本館の解体工事に取り掛かります。未開の原野を切り拓き、苦難の末に新築したホテルでしたが、翌年開業25周年に向けての英断となりました。こけら落としを兼ねた記念祝賀会には、ちょうど工事に着手した年にミスさっぽろに選ばれた長女由貴子(のちの三代目社長)が琴の演奏を披露し、「やすらぎ館」の館名にふさわしい音色を響かせました。地上12階、地下2階建てで、客室数は100室。大理石のロビーや総御影石の大浴場、25mプールや茶室付きの貴賓室などを備えた「やすらぎ館」はその規模と格式において、「札幌の迎賓館」と謳われました。このとき定山渓グランドホテルの総客室数は230室となり、定山渓最大の規模となっています。昭和61年(1986年)、「第11回 日本のホテル・旅館百選」に3回目の入選を果たしました。
定山渓グランドホテル「やすらぎ館」の落成から4年目の昭和62年(1987年)8月7日は邦喜にとって、決して忘れることのできない特別な日となりました。この日、大宴会場で開催された全日本スクエアダンスコンベンション札幌大会に三笠宮崇仁親王殿下、百合子妃殿下の御臨席を賜りました。邦喜は利子、由貴子とともに歓迎晩餐会を開かせていただき、邦喜が未来を担う子供たちのために寄贈していた定山渓太鼓の演奏や花火を打ち上げて、両殿下に歓迎の意を表しました。翌日は定山渓熊牧場へも御案内する栄を担った邦喜は金屏風の前で撮った両殿下との記念写真を大切にしていました。この年に迎えた定山渓グランドホテル開業30周年の記念事業では定山渓初となる渓谷温泉花火大会を実施し、滞りなく終えたのでした。
一方、昭和40年(1965年)に定山渓の新しい魅力づくりの一つとして始まった「かっぱ祭り」が、昭和60年(1985年)20年目を迎え「定山渓ニューかっぱ祭り」として盛大に行われました。このお祭りは協力を依頼した札幌出身の漫画家・おおば比呂司によって発案され、以来かっぱが定山渓のシンボルとなりました。このとき作られた「定山渓かっぱ音頭」は、当時のヒットメーカー山上路夫・いずみたくコンビによる作詞作曲、歌は三沢あけみというとても豪華な顔ぶれでした。20回目も、各ホテルや旅館、飲食店組合員が列になっての大群舞。とても華やかなお祭りとなりました。