昭和42年(1967年)に永久建築が終了した定山渓グランドホテルは白いタイル張りの近代的なリゾートホテルとして、連日満館の好スタートを切りました。定山渓鉄道の終着駅に近い立地も功を奏し、翌年開催された開道百年記念の北海道大博覧会には観光客を乗せた臨時列車が温泉街に活況をもたらしました。多額の借金も順調に返済が進んでいましたが、邦喜は休む間もなく、新事業に着手します。一つは当時、定山渓にはなかったユースホステルの建築。さらに、既存の建物を買収し、案内所兼ホテルのレストラン・ホテル聚楽を開業させます。負けず嫌いで、他人が思いつかないような事業にも果敢に挑む邦喜はこの時、47歳。ここから更なる挑戦が始まっていきました。
一方、事業拡大や設備だけでなく、全道で最初の高卒採用、組織づくり、給与、勤務体系なども時代にあわせて移行していきました。「定山渓温泉で3本の指に入る」。この目標に向かって、突き進んできた邦喜は昭和43年(1968年)、薄別温泉ホテルムイネの経営者に買収話を持ちかけられます。定山渓温泉から中山峠方向へ約4km離れた薄別温泉はかつてのグランドホテル建設を思い出させるような未開の地。邦喜は再三の依頼を断り続けましたが、ついに原野を切り拓く難業に挑むことを決意します。そしてまた、数々の困難を乗り越えながら増築、ムイネグランドホテルと改称しオープン。これが後の「佳松御苑」であり、昭和44年(1969年)には3施設で、合計167室の客室数を保有するまでに事業を拡大させていました。
ムイネグランドホテルの開業とともに邦喜が取り掛かったのは、熊牧場の開設でした。観光資源の乏しい定山渓の一助にと考えた邦喜は「のぼりべつクマ牧場」の評判を聞きつけ、「ヒグマは簡単に手に入る」と考えたようです。ところが、野生のヒグマがそう簡単に手に入るわけはありません。邦喜は全道の猟友会会員に呼びかけ、1頭15万円以上の謝礼を払って、ヒグマの確保に奔走します。さらにお役所からは「熊牧場などもってのほか」と工事中止の通達も受けますが、昭和44年(1969年)、遂にオープンへとこぎ着け、定山渓熊牧場は瞬く間に定山渓の新名所となっていきました。
昭和44年(1969年)、宿泊者数が初の100万人台の大台にのった定山渓温泉は戦後最長の好景気を維持し、3年後に開かれる冬季オリンピック札幌大会に向けて、観光客の入込客も右肩上がりとなることが予想されていました。札幌と定山渓温泉を結んだ定山渓鉄道はこの年、営業を廃止しましたが、大きな影響を受けないまま、邦喜は時代のチャンスに挑戦することを決意します。それは消失した福住旅館の隣の土地に新しいホテルを建設しようというもので、邦喜はまたしても無謀とも思える大事業に立ち向かっていきました。そして、創業から25年目の昭和45年(1970年)10月、定山渓ニューグランドホテルは着工の日を迎えるのでした。