昭和32年(1957年)6月に新築落成を迎えた定山渓グランドホテルは木造3階建て、客室は42室。原野だった土地に出現したホテルは地元の人たちを驚かせるだけではなく、北海道で初めて、政府登録基準に合致するホテルとしても注目を集めました。柱や壁、床にも大理石を使った風呂には邦喜みずから掘り当てた温泉があふれ、規模、サービス、湯量のいずれも定山渓温泉有数のホテルとなった。しかし、某ホテルの妨害とも思える出来事や難事が続き、邦喜は果てしない悩みの日々を過ごすのでした。
定山渓グランドホテルの開業から5年が過ぎた昭和37年(1962年)、邦喜は巨額の費用を投じ、鉄筋コンクリートの近代的なホテルへの増改築を決意します。邦喜より早く、洞爺湖温泉で新ホテル建築に着手していた兄豊に対する負けん気と不屈のメレヨン精神があったからでしょう。その後5年間の歳月を掛け、その他施設の充実を図りました。昭和42年(1967年)の工事終了時には定山渓温泉屈指の規模を誇るホテルへと姿を変えていったのです。
5年にわたる定山渓グランドホテルの増改築工事の期間中、邦喜はつらく、悲しい出来事にも直面しています。昭和40年(1965年)5月には原因不明の出火で、福住旅館が全焼。邦喜が苦労して築き上げた創業旅館を失ってしまいます。さらに翌年3月には定山渓から洞爺湖へ事業を発展させた父増次郎が他界。悲しみに暮れる邦喜でしたが、昭和39年(1964年)に増次郎名義で定山渓小学校へプールを寄贈した功績により、逝去から4カ月後の7月に紺綬褒章が授与された知らせが届くと、「父への孝行になった」と喜びをかみ締めていました。
邦喜の兄豊(二代目浜野増次郎)の二男浩二(現・ハマノホテルズ代表取締役社長)は叔父である邦喜との思い出をいくつも覚えています。「しばらく子どもに恵まれなかった叔父夫婦は私を我が子のように可愛がってくれて、小学校に入学する際にはランドセル、当時は貴重なオルガンも買ってくれたんだ」。小学校入学前に四国、九州をめぐった邦喜夫婦との旅行は一番の思い出だと話しています。その後、誕生した長女由貴子(定山渓グランドホテル3代目社長)を大切に育て、ミスさっぽろに選ばれるなど自慢の娘に成長していきました。