増築を重ねた「福住旅館」は昭和28年(1953)年になると、木造3階建て、客室数21の中規模旅館に発展していました。少しでもお金が貯まると、すぐに投資に走り、浴場の改修や遊技場の新設、ダンスホールの増築など、いち早く、流行りものを取り入れていきました。歴史上の多くの偉人たちのように、「良いものを真似ができない者は独創にもたどり着かない」経営哲学が邦喜の中にもあったに違いありません。しかし、どんなに邦喜が手を尽くしても、手に入れられないものがありました。それは、温泉旅館の生命線である自家泉源を持っていなかったこと。邦喜の苦悩は日に日に増していったのでした。
総タイル大理石大浴場が定山渓温泉の大浴場建設ブームの火付け役となり、団体旅行客も受け入れるようになった「福住旅館」でしたが、温泉は「鹿の湯クラブ」からのもらい湯で、それが邦喜の大きな悩みとなっていました。当時、定山渓温泉の泉源は限られた数しかなく、「鹿の湯クラブ」からは4軒の旅館が鉄管を通じた分湯で、浴槽を満たしていました。ところが、繁忙期になると、どうしても湯量が減ってしまうため、「意地悪されている」と邦喜が腹を立てることもしばしば。晩年、妻利子は、「豊平川の水を一斗缶に汲んでリヤカーで運び、薪でお湯を沸かしてお風呂に運んだこともありました。お客さんに叱られるのが一番辛かった」と振り返っています。
「福住旅館」が賑わいを見せるとともに、邦喜の自家泉源獲得への決意は遂に実現へと結び付きます。新たに泉源を見つけるなどということは、誰も考え付かない奇想天外な発想。それでも邦喜は強い信念をもって、厳寒の豊平川で泉源探索を始めました。そして、時を経ること3年。厳冬渇水期の泉源探しは他に類を見ない行動でしたが、遂にその日がやってきます。源泉が湧くところは地温が高く、雪が溶けているに違いないと考えた邦喜は川底から湧く温かい湯を目にしたのです。昭和29年(1954年)2月、この時の感激は言葉に言い表せないほどのものだったでしょう。定山渓温泉の開祖、美泉定山が湯けむりを発見した慶応2年(1866年)から数えて88年目のことでした。邦喜は秘かに掘削の許可を得て、新ホテル建設へと動き出します。邦喜33歳、これが人生の大きな転機となりました。