邦喜の父、増次郎(1892年-1966年)は果たして、どんな人物だったのでしょう。父濱野岩次・母ナミの四男として生まれます。気性が荒く、転んでも起き上がる不屈の精神と進取の気性は濱野家のルーツ、四国・徳島にあるようです。新天地を求め岩次・ナミ夫婦は家族を連れ大江村(現・仁木町)に入植しますが、増次郎が2歳の時に父親を亡くします。18歳の時、母ナミと末弟を連れて家を出、様々な商売を手掛けます。やがて定山渓で「料亭福住」を手に入れた後、「富久井」の名称で旅館を始め、事業を拡大させていきます。しかし土地が狭く、温泉の権利もない定山渓には見切りをつけ、昭和16年(1941年)5月、風光明媚な新興観光地として注目されていた洞爺湖温泉の旅館「萬世館」(現・洞爺湖万世閣)を買収。長男豊とともに温泉経営にのめり込んでいったのでした。
増次郎に任された「富久井旅館」の名称を「福住旅館」に改め、妻利子と二人三脚で、ねばり強く困難を克服していった邦喜は昭和24年(1949年)、札幌通産局の旅館兼保養所の指定を受け、旅館の増改築に着手します。統制下にあり、建築資材を手に入れるのも一苦労の時代でしたが、総工費550万円をかけ、同年5月、新しい「福住旅館」が誕生しました。当時の大卒初任給が約4,000円。巨額な投資も、マイナスからのスタートだった邦喜にとっては夢へ向かう第一歩に過ぎなかったのでしょう。ちょうどこの年、定山渓を含む一帯が支笏洞爺国立公園に指定されたこともあり、定山渓温泉もその追い風に乗って、一大観光地へと発展していきました。
延べ面積990平方メートル(300坪)の新しい旅館を手に入れた邦喜はその後も次々と、「福住旅館」の増改築に着手していきます。その資金は徹底的な経費節減と家計の節約で得たもので、魚油石鹸1個で、10枚の浴衣を洗濯したり、当時は貴重な甘味料のサッカリンが手に入ると、家族は一切、口にせず、おはぎを作って、客に販売。刺身を切る時は、定規を当てて、少しの無駄もさせなかったと言います。その甲斐あって、昭和25年(1950年)には総タイル大理石造りの大浴場を新築。邦喜はそんな自身の行動を、「無鉄砲というか、がむしゃらというか、初志の貫徹には後へ引かなかった」と記しています。
「福住旅館」の経営を軌道に乗せるため、邦喜は持ち前の行動力で、さまざまなサービスを取り入れていきます。昭和26年(1951年)には定山渓初となる自家用車を導入。派手な装飾を施して、札幌までの無料送迎を始めます。定山渓鉄道と並走して、幌型の車の荷台に乗った女中さんたちが小金湯温泉まで客を見送るサービスはユニークで、迎えのバスの中で、おしぼりを配る細やかなおもてなしも邦喜のアイデア。当時としては画期的なダンスホールを作ってしまったのも、「面白い」と感じたものを取り入れる進取の気性があったからでしょう。時には利子と本州の有名温泉地を旅行し、庭園や浴場などを見て回ることもありましたが、小切手帳を持って飲み歩いたススキノでは少々度が過ぎ、陰で利子が手綱を引き締めていたことは濱野家の逸話として語り継がれています。