後に飢餓島と呼ばれたメレヨン島から奇跡の生還を果たした邦喜は昭和20年(1945年)10月、定山渓へと帰郷します。163cmの身長でしたが、体重は20kgにまでやせ細り、一目で邦喜とわかる人はいなかったといいます。父増次郎が始めた「料亭福住」は「富久井旅館」と名を改め、母美八重が2人の使用人と切り盛りしていましたが、兄豊はシベリアに抑留され、増次郎は昭和16年(1941年)に万世閣(当時の萬世館)を買収し、その経営のため定山渓を離れていました。そのため、「富久井旅館」の経営は苦しく、肩身が狭かった邦喜の寝場所は物置のような場所。空腹をしのぐため、食べられるものなら何でも口にしたという逸話も残されていますが、「メレヨンでの経験をもってすれば、どんな困難にも打ち勝てる」と自らを奮い立てていたのでした。
25歳の青年となった邦喜は昭和21年(1946年)6月、「富久井旅館」の向かいにあった「上田旅館」の二女利子と結婚します。利子の邦喜に対する印象は「とにかく真面目」。顔を合わせると頬を赤らめるような存在でしたが、利子の父は「気ぐらいの高い父親(増次郎)とは違い、この息子(邦喜)なら娘を幸せにしてくれるだろう」と結婚を勧めたそうです。そして、邦喜は父増次郎に言われるまま、「富久井旅館」の経営を任されることとなったのです。客室はわずか3室で、浴場は2坪ほど。終戦まで定山渓を離れていた邦喜には旅館経営のノウハウも地元での人脈もありませんでしたが、「定山渓で第3位以上の経営者になる」信念のもと、利子と二人三脚で旅館業に邁進していきます。
邦喜の妻利子は結婚当時21歳の、俗に言うお嬢さま育ち。若い夫婦の旅館経営はゼロからのスタートで、部屋の掃除から番頭、調理まで一人何役もの仕事をこなす、多忙な新婚生活が始まりました。川で洗濯をしたり、畑で作ったビート大根でおやきを作ったり、自家製の味噌を仕込むなど、陰となり、日向となって邦喜を支えた利子は、「嫁に来たのか、働きに来たのかわからないくらい」と笑い、邦喜は心の中で利子に手を合わせていたといいます。利子にも嫁いだ以上、夫を成功させたいという意地があったのでしょう、旅館はその後「福住旅館」へと名称を変え、徐々に経営も上向いていったのでした。