美泉定山が去って以降の定山渓温泉は定山の温泉場を引き継いだ佐藤温泉(元の湯)と明治17年(1884年)開業の高山温泉(中の湯)、同28年(1895年)開業の山田(熊坂)温泉(後の鹿の湯クラブ)の三温泉場時代を経て、大正時代を迎えます。 そして、大正7年(1918年)に札幌・白石~定山渓間に定山渓鉄道(定鉄)が開通すると、鉱山の操業も相まって、定山渓温泉は行楽地としての賑わいを見せていきました
定山渓グランドホテルの創業者、濱野邦喜は大正9年(1920年)9月17日、父濱野増次郎、母美八重の二男として札幌で誕生します。長男の豊とは一歳違いの年子。様々な商いで成功と失敗を繰り返していた増次郎は木炭取引で大金を手にし、現在の札幌市中央区南2条西7丁目に店を構えるほどになりましたが、ある時、木炭にはならないナラの原木に手を出したことが裏目に出て、事業に失敗してしまうのでした。
札幌での木炭事業を手放し、大正15年(1926年)、定山渓に移住した濱野家でしたが、増次郎は「鹿の湯クラブ」で支配人として働いた後、今の二見橋辺りで精肉(雑貨)店を始めます。兄豊とともに定山渓小学校に通っていた邦喜は8kmも離れたムイネの林業の宿舎まで犬ぞりで荷物を届けるなど、厳格な父のもと、家業の手伝いをさせられました。しかし、この時代こそが邦喜の商売の原点であり、豊・邦喜兄弟は温泉街の人たちから「真面目で堅物の代名詞」と言われるほどでした。後に邦喜は「商品の氷水を運ぶ途中、友達が川遊びをしているのをうらやましく眺めていたら、氷が溶けて、親父にこっぴどく叱られた」と懐かしんでいます。
昭和5年(1930年)になると、増次郎は「料亭福住」を手に入れ、旅館経営にも乗り出します。勉強にも仕事にも厳しかった増次郎のもと、先に小樽の学校に進学した豊を追って、邦喜は小樽の商業高校に入学。ふたりは同じ布団で寝るほど仲が良く、豊が作る弁当を持って通学していた邦喜でした。その後大学に進んだ豊に対し、邦喜は「そんなに勉強しなくても」と大阪での丁稚奉公を選びます。そして、戦火が激しさを増してきた昭和16年(1941年)2月、邦喜は陸軍への入隊を命じられ、その3年後には南洋のメレヨン島に上陸したのでした。邦喜23歳の時でした。