ハマノホテルズ │ HAMANO HOTELS

温故湯新

〜創業の歴史と新たな夢への軌跡〜

想いをつなぐ。軌跡寫眞館 想いをつなぐ。軌跡寫眞館

定山渓の古きを温ね、新しいホテルの姿に思いを馳せる― 定山渓の古きを温ね、新しいホテルの姿に思いを馳せる―

昭和21年(1946年)、定山渓で旅館を始めた。その後初代・濱野邦喜(はまのくによし)はみずから温泉源を掘り当て、定山渓グランドホテルを開業しました。今、新たな夢に向かう私たちのホテルの軌跡を慶応2年(1866年)の開湯から2世紀となる定山渓温泉の歴史とともにご紹介いたします。 昭和21年(1946年)、定山渓で旅館を始めた。その後初代・濱野邦喜(はまのくによし)はみずから温泉源を掘り当て、定山渓グランドホテルを開業しました。今、新たな夢に向かう私たちのホテルの軌跡を慶応2年(1866年)の開湯から2世紀となる定山渓温泉の歴史とともにご紹介いたします。

初代・濱野邦喜(はまのくによし)
湯乃1定山渓温泉開湯 〜美泉定山、温泉場を開く〜 湯乃1定山渓温泉開湯 〜美泉定山、温泉場を開く〜

太古より立ち上る湯けむり

札幌の南、豊平川の渓谷に自噴する定山渓の温泉は修験者、美泉定山(みいずみじょうざん)によって湯治場が開かれ、北海道を代表する温泉街に発展しました。記録では文政の探検家、近藤重蔵や北海道の名付け親でもある松浦武四郎もこの湯で体を癒したと伝えられています。

随分古い温泉なんだなぁ

修験者定山、蝦夷地へ渡る

時は江戸の文化2年(1805年)。備前国(現岡山県)の寺院で生を授かったのが後の定山渓温泉の開祖、美泉定山です。修験者として、全国各地で修行を重ねた定山はやがて、蝦夷地と呼ばれていた北海道に渡り、文久元年(1861年)、ニシン漁で賑わう小樽の張碓村にたどり着きました。

当時は計り知れない苦労だったろう

小樽から山道を越え、常山へ

張碓村で修験者として暮らしていた定山は近くに湯の沢鉱泉を発見し、沸かし湯で湯治場を開いていました。ある時、一人のアイヌ民族の若者が定山をけもの道の山越えへと導きます。身の丈を超す熊笹や藪の中を進むこと、七里。沢沿いに下り、豊平川に出ると、定山の目に飛び込んだのは山渓から立ち上る湯けむり。定山は背後の山を「常山」と名付け、ここに温泉場を開くことを決意したのです。慶応2年(1866年)、定山61歳の時でした。

美泉定山がアイヌの若者の先導で温泉に向かう様子を彫ったもの(章月グランドホテル様所蔵)

一里は約3.9㎞けもの道を七里も越えたとは…

定山、温泉場を開く

病に悩む人々を天然の温泉と祈祷で救おうと、温泉場の湯守となった定山は、小樽と定山渓を結ぶ道路の開削に心血を注ぎます。やがて、時代は明治を迎え、定山は初代北海道長官、岩村通俊から、正式に湯守を任命されます。ところが、明治6年(1873年)の大洪水で被害を被った定山は改めて、小樽へ通ずる新道の開拓に立ち上がります。

定山が湯守を任命された時の書状

初代湯守のまさに開拓魂!

美泉定山、命つきる

資金を集め、新道開削の測量に取りかかった定山でしたが、やがて資金も底を付き、明治10年(1877年)秋、定山は忽然と姿を消し、二度と定山渓に戻ってくることはありませんでした。その後も行方不明のまま時は流れ、小樽市の正法寺の過去帳に「美泉定山法印」の戒名が見つかったのは定山渓温泉が大きく発展を遂げた昭和54年(1979年)になってからのことです。

すべてをかけて定山がつないだのだ