札幌の南、豊平川の渓谷に自噴する定山渓の温泉は修験者、美泉定山(みいずみじょうざん)によって湯治場が開かれ、北海道を代表する温泉街に発展しました。記録では文政の探検家、近藤重蔵や北海道の名付け親でもある松浦武四郎もこの湯で体を癒したと伝えられています。
時は江戸の文化2年(1805年)。備前国(現岡山県)の寺院で生を授かったのが後の定山渓温泉の開祖、美泉定山です。修験者として、全国各地で修行を重ねた定山はやがて、蝦夷地と呼ばれていた北海道に渡り、文久元年(1861年)、ニシン漁で賑わう小樽の張碓村にたどり着きました。
張碓村で修験者として暮らしていた定山は近くに湯の沢鉱泉を発見し、沸かし湯で湯治場を開いていました。ある時、一人のアイヌ民族の若者が定山をけもの道の山越えへと導きます。身の丈を超す熊笹や藪の中を進むこと、七里。沢沿いに下り、豊平川に出ると、定山の目に飛び込んだのは山渓から立ち上る湯けむり。定山は背後の山を「常山」と名付け、ここに温泉場を開くことを決意したのです。慶応2年(1866年)、定山61歳の時でした。
病に悩む人々を天然の温泉と祈祷で救おうと、温泉場の湯守となった定山は、小樽と定山渓を結ぶ道路の開削に心血を注ぎます。やがて、時代は明治を迎え、定山は初代北海道長官、岩村通俊から、正式に湯守を任命されます。ところが、明治6年(1873年)の大洪水で被害を被った定山は改めて、小樽へ通ずる新道の開拓に立ち上がります。
資金を集め、新道開削の測量に取りかかった定山でしたが、やがて資金も底を付き、明治10年(1877年)秋、定山は忽然と姿を消し、二度と定山渓に戻ってくることはありませんでした。その後も行方不明のまま時は流れ、小樽市の正法寺の過去帳に「美泉定山法印」の戒名が見つかったのは定山渓温泉が大きく発展を遂げた昭和54年(1979年)になってからのことです。